専大日語?コラム
専大日語の教員による、月替わりのコラムです。
2022年2月:専門日本語
私が日本語教育に携わるようになった1970年代後半、日本語教育の初級の教科書は何冊かありました。しかし、中級になるととたんに教科書の数は少なくなり、何を使うか困ったものです。さらに上級になると市販の教科書はなく、途方にくれました。そのレベルの学生には各自の専門分野があるので、一律に一つのテキストを使うのは学生のニーズに合いません。最大公約数として、新聞記事を各自の専門分野に合わせて選び教材にした記憶があります。
1992年に出版された『科学技術日本語案内 ―理工学を学ぶ人のための―』[1] は専門日本語の走りとも言えるテキストで、その着眼点のよさ、内容の充実ぶりに、日本語教育の新たな領域を感じました(現在は、その後継本『科学技術日本語案内 新訂版』も出版されています)。
今では専門分野別の日本語教育も発展し、充実しています。
医学分野の日本語
ここでは、私がここ数年関わってきた医学分野の日本語の話をしたいと思います。医学は専門性の高い分野です。ですからこれまで医学分野の日本語教育はあまり活発であったとは言えません。しかし、日本学生支援機構の調査によれば、薬学、歯学等も含む数字ですが、「保健」分野を専攻する外国人留学生は2008年度の調査報告 [2] では2,768名でしたが、2018年度の調査報告 [3] では5,027名となっています。さらに、2017年度には毎年20名の医学部への学部留学生を受け入れる大学も登場しました [4]。ですから、医療分野においても集中的な日本語教育が必要になってきたと言えます。
医学のことばは確かに難しく、医学書をのぞいてみると、意味のわからないことばだらけです。もちろん病名等が難しい語の最たるものですが。動詞にもわかりにくい語があります。次はその1例です。
赤血球の崩壊を凌駕できるほど,骨髄における赤血球の産生が亢進すれば貧血にはならないが,骨髄での産生能力以上に赤血球が崩壊すると貧血となる. (内科 [5])
ここに出てくる「産生」ということばはなんでしょうか。どうも物質が作り出されることのようです。一般には「生産」が使われますが、「大量生産」に代表されるような工業的なイメージが強くなるので、医学では圧倒的に「産生」が使われています。こうした語は一般の国語辞典はもとより医学辞典にも載っていません。
専門用語と一般語
医学を学ぶ外国語話者にとっては、専門用語だけでなく、それとセットになった一般語を覚えるのも大変です。普段「鼠径部」を使っていたら、患者さんに「足の付け根」と言われてもそもそもそのことばを知らないのです。
- 専門用語 ⇒ 一般語
- 「悪心(おしん)」⇒ 「吐き気」
- 「吃逆(きつぎゃく)」⇒ 「しゃっくり」
- 「手背(しゅはい)」⇒ 「手の甲」
- 「振戦(しんせん)」⇒ 「ふるえ」
- 「掻痒感(そうようかん)」⇒ 「かゆみ」
- 「鼠経部(そけいぶ)」⇒ 「足の付け根」
あるいはまた、医学では「バットで殴られたような痛み」とか「丸薬をこねるような動き」「すりガラス様陰影」といった「たとえることば」が使われます。しかし、たとえられるものを知らなければ、やさしく言っているはずの日本語が難しいものになります。
さらに、英語を日本語で発音していると思われている語が日本式の発音でわからないということもあります。
- 日本語 ⇒ 原語(原語に近い発音)
- 「アレルギー」⇒ "allergy" (アラジー)
- 「ウイルス」⇒ "virus" (ヴァイラス)
- 「カテーテル」⇒ "catheter" (キャセタ)
- 「フロセミド」⇒ "furosemide"(フロセマイド)
- 「ワクチン」⇒ "vaccine" (ヴァクスィーン)
専門分野においてそこで使われていることばのどこが非母語話者にとって難しいかに気づけるのは、日本語教育の視点があればこそです。外国の人との交流が進む現代、日本語教育が手助けできる分野はいろいろなところに広がっています。
<参考文献>